最後に(学問における「北朝鮮主義」について)2012年03月29日 01時58分32秒

ブログ更新の最後に、雑感を記します。

(1)東京は虚勢を張る人間が多く(そうでない「知恵」にあふれた、つきあう価値のある人もいます。個別に認識をしないといけないので、疲れるところ)、日本という巨大な田舎の頂点にたつ、虚栄の都、人間不毛の地であると感じます。他方でそれなにり人間的な、古い日本を残している(地方では滅んでいる商店街など)とも思います。そちらを見つけるのは結構大変です。

※(主観が入っていますが)いままで最も良かった所は福岡県です。

(2)私にも関わってきたが、団塊の世代には異常に攻撃的な人間が多い。団塊の世代は競争が激しく、他人をけ落として生きてきたからだと思うが、相手の言い分を紹介しない、無視して一方的・一面的ばかりに批判ばかりしていると、相手にされなくなるのではないか。

(3)上述の○人の言い分を一方的に聞き入れ、私の世界がある「西」に土足で踏み込んで、私に圧力を加えてきた連中がいる。無意味だと思うし、どこまで品性下劣(人権抑圧・弾圧を平気で繰り返す)になれるのか、私には全く理解出来ない。

「本の構成や内容」、「著者の執筆意図」、「主たる課題とそれをどのように解いているか」という書評として基本的用件と見なされる情報をまとめず、一方的価値観、一方的評価「ばかり」(評者の義務を果たした上で、評価を書くので有れば、私も問題ないと思います)書いている評者の意を呈して、なぜ「政治的圧力」(学術の世界に政治が介入することについても、私には???)を加えるのか、私には理解が出来ない。

→「自分の意見を一方的に言う」というのが、際立っていると思います。自分の基準で一方的に相手を批判していく、自分の好みを押しつけていく、となると、通常、コミュニケーションが成立しませんし、多くの人(特に東京以外の地方の研究者)は「この人はいかれている」と判断して、無視するでしょう(東京では言い返すらしい(これもバカバカしい)が、地方では無視するのが通常の対応)。

(4)一応、意見の表明

※下記は、当該人物とその依頼を受けたかも知れない、狭い範囲の関係者だけに該当することです。念のため。なお、当該人物について「大変な偏執狂(自分の議論や行動は絶対に正しい、正しさを承認しない人間がいること自体が、容認できない)であるから、とにかく関わるな」という警告を受けましたが、やっぱり当たっていたのではないかと思います。ある程度、人間の幅があり、研究の幅を容認しないと、会話可能にはなりません。

※私は異なる価値観をもち、課題の異なる研究をしているが(当然ながら、研究には専門分野や分業がある)、自分たちの言うことを、どこまでも聞かせたいらしい。○人。この期に及んでよくわからないメール送ってくるのも、意味不明。

(a)理解不能な人(たち)

→相変わらず、「自分たちの価値観に従わないのは怪しからん!洗脳してやる」ということが言いたいらしいが、私は別の価値観で生きている。良く分からないが、他人に自分たちの思想や宗教を強制しないと、生きていけないというのは、この人たちが(おそらく)批判する、「覇権主義」そのものだと思います。(ちなみに、本質が一緒なので、批判するのだと思います)。

※書評は、結局アプローチの違いを延々と書いているだけです。研究グループの知り合いは「なぜこのような一方的な書評をする人に書評を依頼したんだ?」「別にもっと適切な人がいるだろうに、なぜこんなに遠い人に依頼するのかねえ」「頼む人がいなかったんだろう」「あんたの研究とは合わないんだろうなあ」という感想。まあ同感です。

※「多様な価値観の併存が容認できない」「異なるアプローチの研究が容認できない」という絶対的偏執狂的価値観の人間と、関わり合いになっても、まず良いことはないと思います。私の価値観やアプローチは違いますから、どうにもならない。

(b)人は不十分ながら、主体的に生きる。現代日本は「北朝鮮」(実は北朝鮮の人たちも色々なんだと思います。生き延びるために、多くの人たちは装っているのでしょう。外部からステレオタイプに見ているだけですかね)ではない

→人は勝手に自分にとって価値のあるものを摂取し、進化していくでしょう。人工的に強制して、どうこうなるものではないと思います。あんたたちにとって絶対的に価値があろうとなかろうと、他人にとってはどうでもいいんではないでしょうか。この手の「査問」や「思想教育」で画一化されるのは、「小学生」(も賢いが)までだと思います。「北朝鮮主義」。

→「住んでいる世界」「やりたいこと」「目指すもの」、つまり「1から10まで全て」が違うと言うことでしょう。そもそもの所で発想が異なっているので、いくら手を変え品を変えても、時間の無駄だと思う。「放置」するだけです。世間的には「相性が悪い」とも言いますが。

(c)ストーカーについて

・私は関わる意思を全く持っていないのですが、一方的に相手がやってくるので、「ストーカー」になります。そもそも私はまったく関わり合いになる気もなかったところに、「言うこと聞け!」というのは、少なくとも現代社会に生きる人間としては理解不能ですし、新興宗教の勧誘みたいなものですわ(「自分は絶対」というのが、この人たちの共通した特徴ですからね)。私には当該宗教は関係なかったし、今後も生きていく上では「必要ない」としか言いようがないです。

・ストーカーは概ね「自己○性人○障○」(自らが万能であり、万能性認めない人間を執拗に攻撃する(自分を守っている、自分のことで手一杯で、相手のことが認識出来ないらしい)、自我と他人の境界が曖昧(この場合、○人の研究と私の研究は目的も違うし、全く異質なのであるが、区別が出来ない)、結果として、相手につきまとい行為を繰り返すという特徴があるらしい。「学問的ストーカー」として、ほとんど適合すると思う。

(d)私の考える「学問的犯罪」

・書評で、学会としての評価をすべきところについて、本の意図や内容を無視して、自分たちの宗教の布教をすること。書評を私的流用すること。

※何回も何回も繰り返していますが、「相手の本を評価する」=書評、「自分の思想信条やフレームワークを宣伝する」=書評ではない、ということです。

・本の内容を全く紹介することなく、「教義に則っていないしょうもない本」として、学会誌の書評欄を利用して、人を徹底的に侮辱すること。公平性を期すために、少なくとも中傷する前に、本の内容は紹介すべきであった。まずは著者の論理をくみ取り、その上でコメントするというのが最低限の礼儀であるが、相手の言い分を完全に無視して、自分の一方的基準で批判ばかりしていると、相手にされなくなると思う。

→何回も言いますが、「自分の言うことを聞け、自分のことを分かって欲しい」というのは、「書評」ではないです。「書評」の主役は「評価対象の本」です。評者の「脳内」や「個人的人生」が書評にはみ出るのは、明らかに異常です。だって、私は縁もゆかりもない、全く関係ない、独立した個人、研究者です。

別人に、学会がどうのこうの(これも、少なくとも私に関する範囲では事実誤認や曲解だと思うが)、同じエリアの研究をしているからといって、自分の信奉する論者を学習していないと勝手に憤激したり(現代社会では、他人がどのように生きようと、自由だと思う。私は別の論者から学んでいるだけである)、対人関係の取り方が明らかに異常です。このことが理解できなければ、「ストーカー」でしょう。

・この本の主たる課題は、素直に読めば、「なぜ物事は変化し続けるのか、多様化するのか」とすぐにわかる(多くの人はそのような点を指摘している)。この中心的課題について、さらに検討を重ねる余地がある、明確にすべき点があるという指摘であれば、「内在的指摘」として、意味があったと思う。

※加えて、これだけグローバル化が進んでしまうと、先進国で、どうやってみんなを食わせるか、という当たり前の問題に取り組む研究(と自分では思っていますが)にもそれなりの価値があると思う。特に日本、なかでも地方は危機的状況。私としては、研究者としても社会的にも必要な研究だと考えるし、どのような政治的立場に立とうとも必要な研究だと考えている。しかしそれを否定してかかる(価値観の持ち方が違い、理解しようとしない)ので、「会話不能」という判定。 (注意:いわゆる実学的研究でない研究を否定はしていません)。

・またある学問分野で、かなり狭い範囲に限定してはいるが、より実証的な研究を行っている本であるというのが、大体の評価でしょう。これも別の人から、「次は比較をしてくれ」「対象範囲を広げてくれ」「分野を展開していけ」という、当たり前のコメントをいただきました。コメントした人も、言われた人も、認識は一致します。

※しかし当該人物の指摘は、「自分の好みの世界に従っていないので怪しからん」「自分の世界通りにしろ」というものであり、これ以上話を続ける意味が、全く見いだせない。だってなんで私(それなりに忙しい)が、分野が異なり、研究グループの先輩・後輩・仲間でもない、評価対象として認識したこともない、縁もゆかりもない関係ない人の話を、それも相手の好みに適合させろという、一方的な要求を、わざわざ聞かなければならんのですか?(私には全くメリットがない)。

※私が指摘したいのは、書評をする以上、すくなくとも上述の著者の研究意図や主たる課題については紹介すべきである、それが評者の最低限の責務であるということ。読んでいて「自分の好み」「面白い」と散在的に書くのは、書評の前段階の「メモ書き」だと思います。また、「書評」と「論文の査読」を取り違えて、書評で修正要求(私には関係ない分野の要求なので、私に対応する義理があるわけないだろう)を延々と書くのも、そもそもの「認知構造」がずれているような印象があります。(たえず場違いな対応をしてしまう)。

→全体として、TPOが読めないという感覚。これは私の感覚ですが、この人、「コミュニケーションが十分取れない人」だと思います。自分の要求を一方的に言いますが、相手がどうこうという認識ができないのでしょう。

→また、現代の研究には、多かれ少なかれ分業があると思う。この本はあるエリアの内部の話をしている(課題設定として、ある程度の単純化や枠組みの設定はしないと、研究としてまとめることは出来ないし、私の想定する学問分野では、ある種暗黙の前提であった)のであるが、外部の話が書いていない、自分のフレームワークに沿っていないとして、批判する。私からすると、「課題として設定していない」(たぶんこの○人は、著者の意図や課題設定自体を検討するという意識がそもそもない)ので、当たり前で、「だから何なの?」としか言いようがない。

→その分野を専攻する、別の研究者の課題なのではないでしょうか。 (あるいは自分で勝手にやったらいいと思うが)。

・私は、いくつかの研究分野のために研究している(そっちでは確かに、色々評価していただいて意味があった)のであって、この○人のために何か研究しているのではない。これ以上の意味内容を言いようもないし、するつもりもないとしか言いようがない。

※どのような研究にも、やはり積み重ねた点もあり、課題もある、そういうものだと思います。「その本の研究分野や課題設定や意図を無視して、自分の好みで評価する」=本の評価にならない、「到達点」を全く紹介しない=「無」、自分たちの教義に従わないのでしょうもない=相手の否定、自分の教義で解釈してやるとなると、こちらも相手にする義理はないでしょう。

(たぶん相手が礼儀を尽くしていても、「やっぱり私は別の惑星で別の言語をしゃべっている、別の生き方をしている、別の生物です」という回答にしかならないと思いますが)。

※本の課題と異なる展開を要求(良く分かりませんが)したり、論理次元の異なる抽象度の高い話で具体的な話をしている本を否定する、本人の好みに合わない部分を侮辱して否定するので、まともに取り合う気にならない。ここまで著者の意図を無視して、評者の自己宣伝のために利用する強引(あえてたとえれば、レ○プ的書評?)で、稚拙な書評は、生まれて初めて見ました。(どう転んでも、無理があると思う)。

(e)何か生産的・積極的な意味があるのか?

※私は自分の本を、評者(あるいはその好み)を意識して書いたことは一切無い。翻訳書を検討しましたが、私の所属していた研究グループでは、「主たる研究目的と異なるので摂取する必要なし」として、フレームワークの構築に使わなかった。

※このこと自体が、研究者としての質の違い、指向性の相違を示しているのでしょう。私も検討に値する論者としてそれ以上意識したこともないし、今後もない。私が意識して積み上げようとしているのは、全く異なるいくつかの分野。勝手に基準を設定して、勝手にしょうも無いと評価しているが、こちらは別に評価してほしい人では全くないので、「ああそうですが、だから何なの?」というのが反応。

・私はこの人の信者ではないので、「しょうもない」らしいが、それはお前の価値判断であって、当然、私にはどうもこうもならんだろう。むしろ、本音を言えば、○人に否定されて、大変有り難い(笑い)。だって異質であることが明らかになったから(笑い)。

・その後も、理解不能であるが、布教メール(おそらく事情を知らない代理人を通じて)を送ること。私にはよく分からないが、相手を自分の価値観に従っていない、「しょうもない研究」というのであれば、その後は、ほっておいたらいいと思う。

※「相手の言い分全く無視」で「自分の意見を聞け」で聞く人は、現代社会にはほとんどいないのではないでしょうか。こういう人が評者であったから書評でも問題になるし、その後も問題になるのでしょう。とにかく「関わらないようにする」しかない。

※このケースは研究の指向性が全く異なるので、なにをどのようにしても、生産的な議論にはならない、そういうケースだと思います。このようなことを理解できる人が評者であれば、そもそも問題にもならなかったと思います。私も「まあ、分野も違うが、そういう指摘もあるなあ」と納得する位でしょう。指向性の違いは、何をどのようにしても、どうにもなりません。そもそもの価値観が違いますから。

(f)何をどうひっくり返しても、同調できない価値観・人生観・生き方

※全体的に「権威主義」というか、「正義面して寄ってきて、他人の人格を破壊する」最も醜悪なタイプ。私からすると、「ほっとけばいいのに」としか思わないが、ポル・ポトみたいなやつなのでしょう。

※私から言わせると、学生や院生には色々なタイプや研究があり、それぞれ主体性が最も発揮できて、様々な社会で生き生きと活動できるように、自由に育ててあげればいいと思う。その中で、もし自分と近いような研究や生き方をする人が出れば、それはそれでいいと思う。研究者や教育者の出来ることは、それ以上でもないし、それ以下でも無いと思う。

(5)義理は果たした

※こういう書評を載せるということは、学会の判断があるのだろう(こいついらん、しょうもない)。私は、敬愛する大学院時代の指導教官がこの学会で活動しているので、それなりに敬意も払ってきたし、学会誌にもものを載せたりしたのですが、今回の問題で、「もう義理は果たした」と思う。

※他方で、研究を評価してくれる人もいて、有り難い限りです。発想が近いのでしょう。このような会話可能な人と研究を進めよう。こちらも、かなりはっきりしたというか、今後の進むべき方向性(研究の方向、手法も)が固まりました。ご丁寧な挨拶をいただいて、恐縮です。

→何よりも私は、自分の思考の自由さを保持したかったし、成功するにせよ、失敗するにしても、「自分で考えて、自分で責任取りたい」だけです。他人に恫喝される筋合いはないし、他人に従属するわけでもない。意味ある人にはこちらから教えを請います。

関東エリア・東京は、全体的に権威のもとに様々な人や要素を「序列化」するのが流儀(それはそれで、理由はあるのでしょう)なのでしょうが、はじめに恫喝したり、自慢したりするのは、逆効果にしか映りません(自信ないんだろうなあ、と思ってしまう)。その文化自体が体質的に合わないと言うことでしょう(笑い)。ということで、どうぞ皆さん私にはお構いなくお過ごしください(笑い)。

(6)研究者・教育者としての責任

学生や社会に対しては、自分の能力の範囲内で、貢献していきたいとは考えています。あまり目立たない(目立たないと勝てないという○人らの風潮とは正反対)と思いますが、地道な貢献をしていく、「積み上げ型」のやり方でやってみるつもりです。周りは評価しない(分からないので評価のしようがない面があるのだろう)と思いますが、達観しました。

以上、最後の書き込みでした(大お詫びをしたうえで)。

ゼミ生追い出し2012年03月24日 10時22分08秒

 2008年度入学のゼミ生の卒業イベントを行いました。どうも気の利かない新3年生に指示しつつ(自分たちで先輩くらい送り出せよ、が本音)、写真、花束、色紙や「お祝いの言葉」を贈呈したりしました。

 まあ、この人たちが満足したならば、良しとしましょう。(満足したということでした)。

 有り体に言えば、研究能力は高くはなかった(この年、ゼミ生数調整のために「ゼミ生を取らない」と宣言していたのですが、なぜか2次募集以降でやってきた変わった人たち)のですが、人間関係も出来るし、サポートタイプの多い、前向きで明るい学年だったと思います。

 大学教員のなかでも「変人派」である私としては、「バランスの良い人」を観察して、そのいいところを吸収する、良い機会となりました。能力開発面ではまだまだシバキたかったところですが、社会に出て行くのでいいんでしょう。

 「所を得させる」というか、学生一人一人が、能力ややる気に見合った職業とかポジションを得て社会に出ていくようにサポートするのが、時代、場所を越えて教育者に共通した責任なのでしょう。そのために、時代を読む力、学生の個性、能力、望むものを見極める眼力が求められます。失敗を繰り返しつつ、退職まで「鍛錬」を続けるしかないですね。こっちも段々大人(あるいは老化?(笑い))になってきました。

※一般論として、教員がブログを書いていると、色々問題になる(言論の自由はあると思うのですが、やっぱり世間的なバッシングの対象になる可能性が高い)ので、2011年度末をもちまして、本ブログを「修了」いたします。

※大学教育の課題は色々あるし、時代とともに変化するのですが、時代を読むことが出来、かつ相対的に自律的な学生のトータルな成長を「お助け」するという私の方針は、いつでもどこでも変わらないと思います。

前任校教員同窓会(ですが…)。2012年03月21日 23時55分08秒

 前任校で一緒に仕事をして転出した、あるいは今でもそこにいる教員の方々と、「同窓会」をやってきました。

 本来ならば、思い出話に花をさかせ、温泉&おいしい料理と言いたいところですが(たしかにリフレッシュもしましたが)、残られた先生とお話しして、暗然としました。

※私立大学は何のために存在しているのか

(a)社会で必要とされる人材を送り出す、高度な研究 や国際交流、多様な社会貢献など、比較的公共性の高い教育研究活動・社会的役割を行うために存在

→現任校など、存在意義のしっかりしている大学。課題を見つけてたえざるイノベーションと改善を続ける必要もあります。(続けないと、当然没落します)。大体において、社会的な役割を果たしつつ、組織体として自ら存在しようとしています。残る可能性の高い組織です。ただここで文字化するまでもなく、当たり前の話だとは思います。

(b)地元利権に組み込まれ、よってたかって食い物にされ続けている大学

→その他いろんな大学もあろうかと存じますが(理事長独裁・理事長私物化型など)、前任校はこの類型です。地元の再開発事業の目玉として地元自治体とボス企業に「活用」(要するに、巨額のお金を支出)される、赤字つづきで持続可能性がほぼ赤信号のところに、収益の上がらない系列校のために用地購入を画策するなど、経営的に見れば、「○っている(笑い)」です。

→ただ、地元自治体、ボス企業、利害関係者の思いつきに「奉仕」しつづけていると見れば、非常に合理的な行動です。地元利権の1ピースとして組み込まれているのでしょう。ただし自分の持続可能性はほぼなくなったと判断した方が良いでしょう。

※ということで、残られた先生方、すみませんが、どのように努力されても無意味だと思います。なんせ自ら存続しようとしてませんから(笑い)。また「これだけ貢献したから、助けてくれるだろう(笑い)」なんて甘い期待してはいけません。自治体も、企業も、自らの存続をはかるだけで、手一杯です(利用はしますが)。

※また、「最後は別の学校法人が買ってくれるだろう」も甘い期待だと思います。立地的にそんなに魅力あるとも思えないし、「ハゲタカ」がやってきて、食い物にされるのが落ちではないでしょうか?(私の予想では、地方では不動産は値打ちがないので、ハゲタカも見向きもしないとおもいます)。

※やはり、「みずから存続しようとするもの」だけが生き残る世の中です。まずは厳しい現実を認識するところから出発するしかないのですが、話を聞いていると、もはや思考停止しないと精神的に持たないのでしょう。18歳人口再急減期に合併するか、つぶれるのでしょう。私に言わせると、一面では「自業自得」と思います。(ただ学生は元気だったので、ちょっと残念)。

(一応対案)

・教職員ともに、自分の存続のために、あと2割くらいプラスアルファの努力をする(自分たちが所属組織をカモらず、逆に貢献してプラスアルファを付け加える)。

・地元利権と要領よく距離を取り、経営体としての存続を第一に考えて努力する。これ以上、カモられないようにする。

・つらい現実に直面しても「思考停止」や「現実逃避」せず、オーダーメード教育や一対一教育などを実現し、地道に評価を高め続ける。

・その他社会的評価を高める取り組み(いろいろやってきました)を、なるべくコストをかけずに継続的に続ける。

※「よってたかって食い物にされた」で言えば、JALもそうでした。ただ短期的には復活の方向(当然、情報操作されているのでしょうが)なのは間違いありません。財務的にも、サービス的にも。自分たちで再生しようとしていますから。だから、やっぱり復活はできるのだと、(すでに外部の人間になった)私は思います。

2012年度教育改善方針2012年03月08日 01時45分47秒

最近、コレステロールを下げるために、過度の食事療法と運動をして、具合が非常に悪いです。コレステロールが下がりすぎと医者に警告されました。食事を取る気力が失せているので、危険です。仙人化してあの世に近づくのも、ハイになるので一興ですが。

さて、2012年度の教育改善ですが、学生に「自ら考える力」を養ってもらうことを課題とします。

(1)ゼミ活動

・ジョイントゼミで勝利するために、「ディベートで勝利するとは何か」考えてもらう。今回は安易には教えない。勝利するようにハッパをかけるが、実は教員は過程での成長を重視する。

具体的内容を書いていましたが、削除。効果を検証したのち、また書きます。

→ただしあまりに平和な社会で生きてきたツケか、ゼミ生が良くも悪くも素直すぎる(笑い)ので、自分で考えてくれるかどうかが心配。個人的にはもっと「悪い学生」に来てほしいが(笑い)。

・ゼミ活動全般について。どのような活動が自分たちの力を高めるために必要なのか、一つ一つの活動の意味について考えさせて、実行して成長してもらう。

・ケンカしたりして相互認識や人間認識を深め、ちょっとずつ大人になっている模様。時間がかかるが、教員もつきあうしかしかたない。具体的な「紛争」や「失敗」(笑い)に即して考え成長するように、側面から支援。(主体は学生であるため、強制的には出来ない)。

(2)講義

・全講義の初回に、「インドIITの徹底的に考えさせる教育」についての映像資料を流す。今までの経験では、多くの学生は感動するが、しかし考え抜くようにはならない(笑い)。

・たぶん、自分で考え抜かないと生きていけない、という、「究極の修羅場」を経験してこなかったからではないか。ただ映像資料流した方が、真剣に講義に向き合うようになるので、流しています。

・試験の論述問題(具体的内容を書いていましたが、削除。効果を検証したのちに、再び掲載予定)で論理能力、科目理解力を広く問うことを宣言する。そのために、講義を真剣に聴き、理解し、参考文献を読めと宣言する。

・論述問題は劇辛で採点する。

※しかしあまり抑圧的にやると、学生のみんなの反乱により、失敗すると想定する(笑い)。

※やっぱり講義に教育サポートの人を複数つけて、レポートの書き方、課題の解き方から丁寧に指導して、「見よう見まね」で学んでもらい、基礎体力をつけて、そのうえで学生の発達段階にあったやり方で、「徹底的に考え抜いて課題を解決していく」能力を涵養する必要があるか。

※加えて毎回の講義内容の重要ポイントを問う、考えさせる論理的レポートを作成して、評価し返却するという作業を繰り返す。ついでに「赤ペン先生」的に、コメントを書いてあげて、成長を評価してあげる(笑い)。当然、成績評価に相当程度入れる。

・やり方の分からない学生のみんなに「勉強してもらう」「考え抜く力を身につける」ためにも、上記の地道な取り組みが必要。

・しかし教員が個人的にやると、その教員はたぶん死ぬ(笑い)ので、効果的に支援できる講義サポートのプロを育成して、教員と連動して教育成果を上げていくシステム作りが必要なんでしょう。

・大学院生の教育能力開発と活用(教育産業に進む場合、院生本人にとっても重要ですね)は非常に重要ですし、プロが必要な気もします。ここらへんのしくみを実質的にうまくつくっていく大学が、力を増していく気がします。

・いよいよ多様化する学生さんの能力開発を進め、「自己進化能力」を身につけてもらったうえで社会に送り出すためには、学生さん一人一人と面談して、多角的に判断して、一人一人に見合った個別メニューを成長の各段階で準備するしかない気もします。

・そして学生さんと面談して、一緒に到達点と課題を考える(笑い)。やるほうの死期ははやまりそうですな。教員だけだと本当にヤバイので、学生さんの個別メニュー作成のサポートをする人(プロと大学院生)も必要なんでしょう。

・このあたりの学生さん個別サポートシステムを、その大学の課題にあわせて合理的につくり、きちんと運営する大学も、強いと思います。

・そうすると、大学院の維持強化も、大学教育の発展のために、必要な要素と考えることが出来ます。昨今の大学院の状況は、大学教育強化にとってもマイナスと考える方がよいと思います。

・いい大学は、大学院生もいい(バイト代+教育経験と能力開発)し、学生(各種能力開発を個別指導してもらえる)もいいですね。お互いトクします。このような好循環を作れるかどうかが課題かも知れません。

※あとは中教審の大学教育部会やこれまでの学士教育の議論についてですが、大体、大学教員は、同じ事を考えているということになります。一言言えば、「未解決の課題を見つけて解決に向けて格闘し、論理的な文章としてまとめる・表現する」は、いままでもやっていた「卒論まで丁寧に面倒を見て、劇的に伸びる」と言うことと思います。学生の知的論理的能力、表現力は卒論で劇的に伸びます。実社会や他者との関係については、ゼミでトータルに伸びるということでしょう。ゼミをまじめにやった学生は、やっぱり伸びていますから。

※改めて、「ゼミ教育」と「卒論指導」の重要性が確認できるという、当たり前の結論です。(まじめにゼミやっている先生に、優遇措置が欲しい(笑い)。)

※あるいは、1年生初めから大学における課題を与える(自分で無理やり設定する)、卒論を書かせてみるという、逆の発想もありえると思います。

※まとまらないメモで失礼します。改めて「大学における教育ってなんだ?」考えてみます(永遠の自問自答ですが(笑い))。

2011年度後期 専門科目授業評価結果2012年02月04日 15時29分17秒

2011年度 後期 専門科目 授業評価結果(教員の独自集計分)

最終受業時に実施。講義資料の最後に綴じて、配布。教員の独自調査であり、回答してほしいと伝えたが、回収率は50%弱。出席者の半分程度しか回答していない。

講義の満足度

5 大変満足 4 満足 3 どちらでもない 2 あまりおもない 1 思わない

で平均が4.26と、前期よりも、0.2ポイント程度、低下。悪くはないが、突出して良くもない。こちらの体力が低下したからであろうか?今後、「普通のいい先生」になりそう(笑い)。

評価ポイント:説明のわかりやすさ、分量の多さ、ボリューム、内容がまとまっている、聞いていてもあきない、穴埋め方式で眠くならないなど。

改善要求:映像が見たい、進むのが早い、など。

→来年度、テキストを出版し、同時に、講義内容を刷新する予定。これらの改善要求も、同時に処理するつもりです。いつもながら、「出席しているのに回答しない人」には協力して欲しいところであるが、まあ仕方ありません。

あとは専門講義であるが、「体験型講義」など、より参加型講義にする必要も感じる。他方で、成績評価の厳格化、大学で教える講義内容をより高度化するなど、学生さんからすれば、「逆コース(笑い)」の改革も行う予定。

回答してくれた人、ありがとうございました。

コメントへの返信(今後は教育関係記事のみ)2012年02月03日 13時39分35秒

最近、「書評問題」(自閉的亡霊の攻撃&中傷)で色々書いたのですが、役割を終えたと思う(関わらないようにする)ので、削除しました。今後は、めったに更新しないと存じますが、教育関係の記事のみ載せることがありえます。

※念のために追加すると、私は、「自分は自分」ですので、ある世界の、どの流派でもなく、あえていうと、「師匠流」だと思います。師匠も「自分は自分」「学会にはいろんな人がいる」「極端な人(笑い)あるいは「しょーもない人」は避けて、いい人とつきあう」なので、そのような「創造的な生き方流」でやってると思います。

お笑い地域出身なもので、関東(に固有かどうかも自信なく、訂正の必要大だと思いますが)の「権力的・機械的な人間分類」にははまらない、「干支からはずされても、オンリーワンの地位を確立した「招き猫」のように「精進」(笑い)」しております。

※コメントいただいても、お返事や逐一のコメントは一切できませんので、あしからずご了承ください。

※個人的には、日本の地方の衰退は長期的傾向で、どうしようもないと思います。東京もいずれ没落するでしょう。グローバリゼーションの流れは止まりません。急速に変化する世界のなかで、日本は「相対的に見れば」急速に衰退しています。日本の地方圏は、韓国と同じで、必要なくなるでしょう。

※これだけ全産業的に「デジタル化」が進んでしまうと、ITで覇権をとれず、「下請け化」してしまった日本(ものづくり)は、もはや終わったと思います。韓国よりも急速に衰退するかも知れません。ただ他方で、名目数値で日本は衰退しているだけで、依然として高水準の仕事、生活ですので、見方を変えれば、「このままでもいいや」ということかも知れません。

※次世代は、「地域」からいろんな物事を生み出す力がある「アメリカ」と「中国」が目立つ、カオスの時代となるでしょう。それはそれで面白いでしょう。

※日本の地方の大学は、私は存在意義があると思うのですが、中長期的には、大部分が維持できなくなるでしょう。ただ、その組織にいる間は、自分なりにがんばってください。そして「もう無理」だと思ったら、脱出してください。

ある分権的な国で、デジタル化産業構造の拠点の一つと目される地方都市が、うまく多様化していることを本にしましたが、本について、あまりに偏狭で独善的な書評が出て、「自分の矮小化した自閉的世界・自己愛を守るために他人を批判・自己愛憤怒(とんちんかん)する」ので、嫌気がさしたというか、ばかばかしくなってしました。世の中いろんな人がいますわ。

「誤解を恐れず単純化して言えば、テロリストです(笑い)」

「たぶん、「紋切り型ロボット人間」です(笑い)」

「自分と同じような世界観を持っていないやつは怪しからん!」と言って攻撃するので、他人には意味が無い。あとはこの「テロリスト」は頭が非常に硬直的、○○○発達○○で、創造性皆無(創造しているのは海外の人でその翻訳・紹介は良いが、性格の異なる他人に機械的に適用するので、おそらく非常に頭が悪い)である、相手するだけ時間の無駄。)

認知構造が一面的で、「自分の個人的体験や教団の世界」を普遍的なものとして絶対視してしまい、あらゆるものに適用しようとするので、無理が生じる。(「自分の好みの世界以外は無価値」という一面的評価を繰り返す)。

「プロファイリングの結果は、小学校高学年程度の、精神的子どもが、いろんなところで自己顕示しているということです(笑い)」

見ず知らずの人を、言葉上で侮辱したり罵倒したり(実態、現実は別にあるので、おそらく、「本人の自尊心」を満たすための、自閉的トリック)、社会的ステータスとは関係なく、「幼児」です。近づかない、近づかせないのが、良い。「怪物」。

※このような「正義面した幼児」、社会に存在していて、恥ずかしくないのでしょうか?人の本をきちんと評価できない(評者失格)以前に、このような○ったやつが、人間として生存していること自体が理解できない。

※「怪物的所行」を繰り返していて、よく平気で責任ある大学教員が出来るものだと、怒りを通り越して呆れかえるばかりです。人間のクズ。

→「他人の良いところを正当に評価して、そのうえで改善提案をする」という成熟した、知恵のある人間の振る舞いが出来ない。いかれている。異常に虚勢を張っているが、実体が非常に弱いからだと思う。

※あとは全般的な違いとして、東と西で学風も違うし、社会の成り立ちも人間関係のあり方も全く異なるので、東の人間が私に関わっても摩擦が起きるだけで、もはや何をしても摩擦を生むだけだと思う。

ただ、上述の変な出来事は無視して、自分なりに世の中に貢献できるような、世界の潮流を見通せるような、地道な研究はしていきたいと思っています。

(追加)

私の「心眼」によると、コメントした人の大学のトップは、硬直的な人です。その人をどうこうすることはできませんし、その人では未来はありません。ただ、あなたのいる学部には、まともな人がいます。その人たちとよく相談して、がんばってください。

(下記、コメント)

だいぶ前の記事ですが、コメントさせていただくことをご容赦ください。地方私大に昨年より勤めているもので、まさにご指摘されている「ニューエコノミー世代」の人間です。

このブログに書かれていることが、現任大学にほとんどあてはまっているので、(赴任してから危機感が徐々に募っていることは当然なことだと)、妙に納得してしまいました。

理事長の言葉「一致団結して・・・」も、まさに現任大学の学長における、今年度の年始のあいさつと同じだったので、ある意味笑えました。

前任の旧帝大の人脈を駆使して(+研究の実績が途切れる前に)、脱出を試みなければと考える毎日です。

以上、失礼いたしました。

教員は過分に恵まれた仕事2012年01月08日 01時06分49秒

昨日、前任校(離任して4年たちます)の元ゼミ生から連絡。かつて残してきたゼミ生のうち、就職できなかった学生が無事就職したという連絡をもらいました。

すでに4年たつのですが、かつての教え子から連絡をもらえて、本当にありがたいというか、教員冥利に尽きる感覚です。

「先生にご迷惑をおかけして」と言われましたが、私は迷惑と思ったことは全くなく、その子が「親離れ子離れ」できていなかったことが気がかりなだけでした。ちょっと時間がかかったかもしれませんが、就職が決まって、本当におめでとう。またこれから大変と思いますが、あせらず、一歩一歩大地を踏みしめて、生きていってほしいと思います。

昨日はゼミ生から、学生として最後の定期公演に来てほしいと言われ、行ってきました。こちらも、ゼミ生の別の顔を見ることができて、必死に、生き生きと活動している様を見ることができて、本当に有り難かったです。

ちなみに、演奏会は久々に感情を大いに刺激されて、不思議な居心地の良さを感じました。

今年も色々(リライト版)2011年12月23日 18時33分01秒

記録として残しておきます。今年も色々ありました。研究面では共著を書いたり、教育面では、4年生は全員就職内定とったり(本当におめでとう&ご苦労様でした)、3年生は相変わらず優秀であったり、2年生がジョイントゼミに負けて成長したりなど。行政仕事は減って大変ありがたいです。

数年前、本を出したのですが、色々ありました。6人の方から書評をいただいた(こんなに多くの方から、本当にありがとうございます)のです。「内在的書評」として、私のいいたいことをきちんと踏まえてくださり、課題を指摘してくださった方が5名もおられて、研究を前進させたり、研究の幅を広げたりするうえで、大変参考になりました。誠にありがとうございました。私ごときに、過分な扱いをいただいたこと、感謝申し上げます。

(1)「変な書評」(知り合いによる表現)

1名の方は、「自分の翻訳した海外の論者(および自分)」の「宣伝」をするために、私の本の書評を利用するという、トンデモ書評をしていました。あるいは、「自分の硬直的思考フレームワークを守るために、異質な他人の本を徹底的に侮辱して否定する」という、「自己愛保全型?」か「自閉的書評?」を行っています。

普通「書評」は相手の言い分をきちんと踏まえ(要約)、そのうえで論点を提起すると思います。大学で書評の教育をする場合、まずこのような手続きをしっかりと教えます。まず相手の言い分を踏まえないと、評価はできないと思いますが。今回は私の言い分をまったく無視して、記述が始まっているので、恐れ入りました(笑い)。相手の論理を全く無視して、自己宣伝(おそらく、自我の保身)を行うわけです。

結果として、一面的評価が非常に多く、自分の頭の中の枠組みを離れて、「自分とは別の人が書いた自分の思考フレームワークとは異質の本」の評価ができなくなっていると感じる。あるいは、自己宣伝が目的なので、私の本の書評など、はじめからする気がなかったのでしょう。(あるいは自我の保全が目的で、異質な本を世の中から抹殺したかった)。

他人の本の書評ではなく、「自分だったらこうする」という「自分の思考」や「自己愛」が延々と書いてあると理解すれば、理解できるが、しかし別の課題を掲げ、研究目的の違う私にとっては、意味がない。私の研究を全否定してもらえれば大変ありがたい(笑い)が、私の意図しない、良く分からない評価もある(笑い))。

※書評の必要用件である、「内容要約」=著者の言い分(問題意識、課題設定、構成等)を紹介・理解するという作業をきちんと行っていないためであると思われる。あるいは、テクニックとして、「相手の言い分は全く無視する」という戦法をとり続けてきたのではないか。そっちのほうが、一方的に批判できて、周りをだましやすいから。

「他人の本の評価」ではなく、「評者の思考」が延々と展開されていると読めば、わかりやすい。読者がつきあうのは、「評者の脳内像」であり、評者が理解した本の内容。普通は、評者と著者の認識が一致することがままあるが、この人の場合、「評者の評価ポイントを満たしているかどうか」と言う基準で、内容を検討していくので、多くの場合、認識が一致しないのではないか。

※評者の場合、「自分の教団の本以外の本」のほとんどの本が「自分の基準を満たさないしょうもない本」という評価になっていくのではないか。

「全く説明がなっていない」という全否定を行う。この手の一面的評価が危険であるのは、皆さんも良くお分かりと存じます。当然、著者の私は、当然自分なりの体系を構成していることを知っているのですが。要するに、評者の全否定は、「評者のフレームワークに沿っておらず、怪しからん!」という評価を行っているということなのでしょう。私は評者とは別人なので、当然の帰結ですな。

「この評者の書評を読んでも、本の内容がわからない」のが共通した特徴。良質の書評は「本の内容が分かり、かつ評価もわかる」、つまり評者の客観性と主観性ともに読み取れるが、この書評は、「主観性(信念あるいは教義)」だけが存在していると思います。やっぱり「いい書評」は内在的書評になりますね。

とすると、「自己宣伝」(自我宣伝?自分の信奉するフレームワークの「布教」)を延々とすることが目的だと思います。相手を一方的に批判して、自分の宗教の優位性を誇張する、無理筋で自分の宗教のフレームワークに本を「改造」する、侮辱したあと、自分のフレームワークで「色々知っている」と自己愛を展開しまくる、など。○った人。○人。

※意味をくみ取るとすれば、たぶん、理論研究と実証研究、学問分野で、研究目的、評価基準、学問スタイルが全く異なっていることが、根本にある気配。異分野からの評価であるので、意味をくみ取ろうとしたが、生産的な意味が無い。議論がかみ合わず、書評自体の意味が無いと思う。

特徴として、私以外の存在への「個人的うらみつらみ」と「憤激」、そして「教義を布教する」意図を感じる。その主張のために、書評を引き受けたのではないか。この点は別途まとめてみたい(削除しました)。真の狙いは、自分の自我というか、自己愛を守りたかったのでしょう。

※読み取れるのは、「自分と同じ価値観を持たず、自分と同じように分析(「分析」や「研究」の意味内容も私とはかなり異なる感覚ですが)しないやつはけしからん。馬鹿だから教育(布教)してやる」ということである。

評者と異なるフレームワーク、価値観を持つ人にとっては、新興宗教の教祖が、他人をマインドコントロールしようとしていると読めば、理解しやすい。評者の自己愛に、他人を従わせたかったんですな。(○ってる)。

(2)聞き取り他

知り合いに聞きとりの結果

・「異常な書評?」の人:別の本の「書評」でも「変な書評」を書いたということで、ある人が相談を受けたということでした。どうも奇怪な「書評」を書くということで、常習犯らしい。

→私も数年前、この人の書いた書評が異常であるとして、相談を受けました。そのときは、よく分からなかったのですが、今回その理由が分かりました。

・私の見るところですが、「相手の言い分を完全に無視して、自分の意見を一方的に言う、自分のこだわりに異常な執着を示す、翻訳は得意」→常人ではないと思います。

※自分の信奉する枠組みや好みに適合的か、否かですべて判断している模様。適合的=すばらしい、適合的でない=価値がない、となる。また「異質な相手」が認識できないので、広汎性○○障○か、○機○○○症の蓋然性が高いと思う。白黒二分法で世の中を認識するので、ある種わかりやすいが、人格障害的というか、幼稚な印象。

・下手に刺激すると、「自己愛憤怒」するタイプのやっかいな人である蓋然性が高い。非常に独善的なタイプと思う。「善」のレンジが個人的というか、非常に狭い。狭いレンジから、「お前の研究は意味がない」という攻撃を発するが、課題、目的、分野の違う私にとっては、「自分とは異質」というのは分かるが、生産的な意味がない。

・あとは、自分の「個人的基準」に当てはまらないからといって、相手(私)を侮辱し、きちんと検討せずに侮蔑表現を使うのは、やっぱり、社会的礼儀がなっていないので、避けた方が良いと思う。普段は表面的にどのように取り繕っていても、国税の投入されている組織に勤務する社会人として、まずい。通報してみようか(笑い)。

※「ある理論(評者を除籍したある学会でも、「一時期はやった」ようであり、徹底的に否定して貶めたかった模様。ただ、それ以外の多くの分野ではそれなりに評価される議論となっている)をそのまま適用しているバカである」と人をさんざん侮辱する。

(なお事実は異なり、私はその理論を咀嚼して参考にさせてもらったことはあるが、機械的に適用などしない)。

しかし、自分も、自らの翻訳本(教育を受けた学派)のフレームワーク(認知構造が一面的なので、おそらく「本人の個人的な解釈」と思う)を私に無理筋で強制するので、「翻訳本をそのまま適用」している。つまり、相手に対する批判が、自分自身に返ってしまうと思う(笑い)。紋切り型で面白くないし、認識が硬直的と思う。

このような事情を抜きにしても、どのような相手にも礼儀は守った方がよいと思う。社会人として「欠陥品」です。汚らわしい。

※追加すると、学会誌の「書評」は、やっぱりある程度は学会としての本の評価を書くところであって、学会の伝統や積み重ねてきた議論とは関係のない「外野」が「私信」や「脳内イメージ」や「教義」をそのまま書くところではないと思います。私からすると、「書評の私的流用」をしているように思えました。

・ということで、最終的な判断としては、「評者選びのミスマッチ」ということになりそうです。

(3)結論

・自らの身体的・精神的健康のために、一切関わらないようにする。危険であるから。他人の自己愛を満たすために、私が犠牲になる必要は、全くありませんから(笑い)。

・「私に寄るな、触るな、近寄るな」と宣言します(笑い)。(近寄れば、警察に通報しよう(笑い))。ついでに家と研究室に盛り塩をして魔よけをしましょう(笑い)。

・腹を割って相談できる人々と相談の結果、この書評、やっぱり「独善的でほっとけ」ということになりました。せっかく優れた研究を翻訳・紹介しても、「自分の自己愛を保全するために」その研究を絶対視して、課題や性格の異なる本に機械的に適用、価値観を「押し売り」してしまったら、「テロ?」になります(笑い)。

・結果、相手の評価すべき点を十分指摘せず、一面的に批判して、相手を必要以上に貶めてしまったら、この人自身がやっぱり「変!」になってしまいます(笑い)。

※ということで、「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ために(笑い)、○人とは永久に関わらんぞ!と(笑い)。これで終わればいいのですが、まともに取り合う気の起きない書評を載せる学会、依頼する人、執筆する人の存在を知ると、ただひたすら虚しい。

ゼミ活動やゼミ募集(2011年度後期)2011年11月25日 22時05分49秒

教育記録やゼミ活動のメモ代わりに。将来、かつてのゼミ生が見るかもしれませんので。

後期になり、ゼミを2年生主体に切り替え。本当は3年生主体でやりたいが、就職活動を考えて、夏で事実上の引退としています。大学教育を考えれば、就職活動をせめて1月からにしてほしいですが。

ジョイントゼミ東日本大会は、残念ながら2チームとも敗退。ここ2年、歴代最優秀の3年生の圧倒的なパワーで、東日本大会、西日本大会ともに全勝だったたけに、2年生はかなり悔しがっていました。

ただ「負けを知って初めて勝ちを知る」でしょうか。敗因を私なりに把握し、改善点を提示(頑張った点、成果を正当に評価してあげ、そのうえで改善点を提示するのが重要)したところ、2年生が自らゼミ運営に責任をもって取り組み始め、傍から見ていても、「少年少女」から、「自ら考え行動する主体的な大学生」に、格段に成長しつつあります。劇的に伸びるというのはこのような事でしょうか。

ゼミ長も、ゼミ長業務を手取り足取り教えると、別人みたいに成長を遂げました。2ヶ月で、一応私に「業務報告」ができるようになりました。企業の新人教育みたいですな(笑い)。大学の先生の仕事も増える一方ですわ。自分はどこでも教育を受けたことはないですが(笑い)。

今年度ゼミ応募、30名ちょっと、2年生が非常に頑張り、応募を増やしました。10名くらいに絞りますので、選考が大変ですが、まあ2年生と夜中まで一緒に選考しますわ。コレステロールで「要治療」(笑い)中、学生と一緒にピザを食べ、コーラを飲んでという苦行がありますが。

学生の成長段階に見合った言い方で、課題を提示し、取り組ませると、劇的に成長します。毎回思うのですが、やはり教育には無限の可能性があります。ただ年々「学生と同じ行動をする」のが体力やコレステロール的に難しくなっております(笑い)。

2011年前期授業評価結果(概要のみ)2011年10月10日 17時04分55秒

教育情報更新。大学実施のものではなく、独自集計です。自由記述回答は過去のものと類似なので、ほとんどを省略しました。

(1)専門科目

受講登録 90名程度、回収率 62.3%→これまでよりも格段に高まった。出席チェックをまめにしたからであるが、今後も継続するかは要検討。 3時間かけて通学する学生が、1時間目に毎回出席するのは、やはり難しいと思うからです。

5 大変満足 4 満足 3 どちらとも言えない 2 やや不満 1 不満 回答者平均 4.56

満足度平均、4.56 なので、一応よしとする。しかし今回は「2」が1名いたので、対応が必要か。講義能力は年々高まっている感覚。 試験の出来も、まあ良かったので、特に問題はないと判断。ただ来年度は科目内容を時代の要請にあわせてバージョンアップ予定。

クレームといって良いかどうか分からないが、1時間目開講を、いい加減やめてほしいという意見が今年もやはり出た。来年度は時間割調整を行い、2時間目以降にしてもらうつもり。受講生から毎年クレーム言われる。

(2)教養科目

受講登録 200名程度、回収率 61.7%→こちらも、これまでより格段に高まった。出席チェックの成果か?しかし今後継続するかどうかは、検討の余地あり。私としては、「強制」ではなく、自発的・能動的に講義に参加してほしい。

5 大変満足 4 満足 3 どちらとも言えない 2 やや不満 1 不満 回答者平均 4.48

満足度平均、4.48 なので、一応よしとする。こちらは、「2」と「1」の回答はなかった。年々評価は高まっているので、この大学に適正な水準・手法の講義なのであろう。特に問題ないようだ。

試験の出来は良かった。受講生の興味関心を引くことに成功したのだろう。

ただ来年度からカリキュラム改訂があり、担当講義が変更になる。いままで成果が出ていただけに、「配置転換」は若干残念。新しい科目にまたトライしてみます。

※教室設備が良いので、映像資料が使いやすく、受講生から好評であった。

C-マンション